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東日本大震災の記憶(トモノリスキー編)
2011年3月11日

2011年3月11日  2011年3月12日

まず、はじめに・・・。

今では震災前とほとんど変わらぬ生活を送ることができている私と家族だが、津波や原発事故の被害を受けた地域では依然として深い傷跡が残っている。

表題のとおり、私トモノリスキーの視点から見た東日本大震災の記憶をここに留めておきたいと考え、まとめたものである。

私と家族・親族は幸い誰一人として命を失うことなく元気に生活を送っているが、それまでの道のりは大変厳しいものであった親族ももちろんいる。

震災の傷跡を写真には留めてこなかったため文字だけで表現するが、お読みになっていただいている皆さまに少しでもこの記憶を伝えることができるように、そして、私自身も忘れることがないよう、表現等には十分気を配ったつもりである。

2011年3月11日、すべてが終わった・・・と思ったこの日...。

金曜日のこの日、私は会社事務所内を事務員2人とともに忙しく走り回っていた。

毎週金曜日は他事業所の営業日であるため人員が手薄となり、比較的お客様対応に右往左往する曜日なのであった。

3月だというのにとても肌寒く、まだまだ春は遠いと感じさせるどんよりとした曇り空の下、午後も忙しく事務員2人とお客様対応に励んでいた。

そして、14時46分、そのときは来た。

私は事務所奥のデスクで仕事をしていたが、ゆらゆらと横揺れが起き、携帯電話の緊急地震速報も鳴り出した。

しかし、私はいつものごとく震度4程度の揺れだろうと高をくくっていたのだが、このときは違った。

揺れは収まるどころか、揺れの激しさの限界はないんだと思わせるようなとんでもないものだった。

まともには立っていられず、デスク上に書類が次々に散らばり、デスク自体も暴れ、書棚が今にも倒れそうになり、複合機が左右に揺さぶられ、ものすごい地鳴りや事務所の壁やガラス窓のきしむ轟音が響く。

私は、一瞬どうしていいか分からなくなり、現金機を必死に押えている事務員たちを残して事務所の出入口近くでおどおどしていた。

すると、外から1人の現場担当者が「大丈夫か!?早く外に出ろ!」と大声で叫びながら走ってきて、事務員2人を事務所の外へと引っ張り出した。

私もその後を追うように事務所の外に出た。

事務員2人はすっかり腰が抜けて、地面に座り込んで動けなくなっていた。

あちこちから現場作業員たちが集まってきた。

揺れは一向に収まらず、建物という建物がすべて崩れてしまうのではないかと思った。

現に、会社のシンボルタワー(以前の会社の建物で、半分朽ち果てており、使用不可となっていた)が、まるで発破工事でもしたかのように轟音と白煙を立てて根元部分から崩れ落ちた。

その様子を自分の目にはスローモーションのように写り、不謹慎ではあるが、ビデオカメラがあれば撮っておきたかったと思ったほどの見事な倒れようだった。

その塔は幸いにも人も他の建物もない方向に倒れたため、塔が倒れてしまったこと以外にこれといった被害はなかった。

3月だというのに雪が降っていてとても寒かったが、現場作業員やお客さんは広い会社敷地の中央付近に集まり、震度4〜5の余震が続く中、気持ちを落ち着かせながら家族と何とか連絡を取ろうとしていた。

現場作業員の1人が携帯電話のワンセグでテレビを見始めたので耳を傾けていると、なんと、6mを超える巨大津波が場所によってはすでに到達しているという、にわかには信じがたい情報が流れていた。

実は数名の現場作業員が港湾の敷地内で重機やトラックを使って作業をしていたので、非常に心配になった。

私は妻や親、兄弟、親戚の携帯電話に繰り返し電話を掛けていたがなかなか繋がらず、とても不安になっていたが、海沿いで作業している現場作業員のリーダーにも電話連絡を取ろうと何度も何度も発信した・・・が、やはり繋がらない。

何とか妻と父親には電話が繋がって無事であることが確認でき、こちらも無事であることを伝えたが、兄弟や親戚、そしてリーダーとは連絡取れない状態が続いた。

私の家は内陸にあり、また実家も標高の高い場所にあるため、津波の被害こそ心配する必要はなかったが、連絡が取れるまでは、家が倒壊したり、家具が崩れ落ちたりしていないかとても心配で、頭の中がぐちゃぐちゃになりそうだった。

妻と息子は家の中で大地震に遭い、家の外に飛び出して揺れが落ち着くのを待ち、必要最低限の荷物だけ持って近所にある公園の駐車場に車で何とか避難したとのこと。

父親は、家が崩れるかと思ったそうだが、何とか持ちこたえ、家の中の片付けを少しずつやっていたとのこと。

私はこの連絡によって精神的に少し安定を取り戻したが、他の作業員や事務員たちは携帯電話で家族と連絡を取ろうと必死だった。

社長は、周辺や他事業所の様子を見てくるとのことで外出し、他の現場作業員の数名からもちょっと家に帰らせてもらいたいとの申し出があったため、必ず戻ってくることを約束した上で、家に帰らせることにした。

私は、もう町中は建物がひっくり返ってめちゃくちゃだろうな、道路も車が走れない状態だろうなと思った。

余震が幾分か収まってきたような感じがしたので、お客様には気をつけて帰っていただき、会社に残った我々は社内の食料・飲料などをかき集め、最悪、夜は会社に残らなければならないかもしれない事態に少しでも備えようとしていた。

その後、海沿いで作業していたトラック運転手が戻ってきた・・・本当によかったと心の底から思った。

また、リーダーとも連絡が取れ、津波からは何とか逃れ、渋滞の中を会社に向けて走っているところだとのことだった。

そのリーダーの話だと、地震発生時は、岸壁のアスファルトが激しく波打ち、割れたアスファルトからは海水が噴水のように噴き上がり、慌ててトラックに乗り込み、アスファルトの割れ目にタイヤが取られないように気をつけて海を離れようとしたが、すでに道路は逃げようとする車両で大渋滞が発生し、裏道を通って必死に逃げてきたとのこと。

そのリーダーのトラックは夕方6時過ぎ、会社に無事到着した。

それまでには、社長は会社に戻り、他の作業員や事務員たちは帰宅し、停電のため電動シャッターが動かなかったため残っていた運転手に出入口にトラックを横付けしてもらい、会社内の安全を確認した上で、会社を出た。

(つづく)

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