×

[PR]この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。

・磯を中心とした海釣りの日記や釣果情報 ・ISO(国際規格)情報 ・アニメ情報、グッズ販売 ・オンラインショッピング ・その他雑学など
ようこそ、エゴロジープラザへ!
タイトルバナー・・・リンクバナーとしてもどうぞ!
現在地 ホーム>「ツキを呼ぶ魔法の言葉」(五日市 剛)

「ツキを呼ぶ魔法の言葉」
(五日市 剛)

■はじめに

昨年、あるプロのコンサルタントの講演を聴く機会がありました。
その方の話によりますと、日本で毎年新しく設立される会社は、だいたい8〜9万社くらいあるそうです。
ところが、1年後にはそのうちの40%は倒産という形で消えてなくなるらしく、さらに5年経つと85%はなくなってしまうそうです。
厳しい世の中ですね。

そこで、そのコンサルタントがそれぞれの社長さんに、「勝因は何ですか?」「敗因は何ですか?」と聞いてみたそうです。
すると、生き残った社長曰く「運がよかった」、倒産した社長は「運が悪かった」。
みな、運、運と言うのですね。
それでは運というのはいったい何なのでしょうか。
まあ、本質的なことは僕にはよく分からないんですけど、実は、本当に簡単なことでツキというのを手にすることができる。
ツキっ放しになっちゃう。
今日はそんな不思議な話をさせていただきたいと思います。

■イスラエルのおばあさんとの出会い

僕は28歳まで学生生活を送っておりましたが、25歳くらいのとき、あることがきっかけで中東問題に興味を持ちました。

理工系の学生なのに、イスラエルやアラブ諸国の諸問題、とくに民族問題が気になりましてね、日に日にハマっていったわけです。
それで、どうしてもイスラエルに行きたいなぁ〜と思い始め、とうとう湾岸戦争が起こった年の冬に、イスラエルへ行くことになったのです。
そのときの経験がきっかけで、僕の人生がガラッと変わってしまいました。
ちょっと御釈迦話みたいな話なんですけど、本当にあった話なのでどうか聞いてください。

湾岸戦争があった年の冬、クリスマスの数日前に、日本を発ってイスラエルへ向かいました。
1か月間という長い旅行です。
大きなリュックを背負い、ジーパン姿で向かいました。
イスラエルというと、とても暖かい国のように思うかもしれませんが、その年はなんと数十年に1回あるかないかという大寒波の年で、旅行中にドカ雪まで降りました。
そんなこと、現地へ行って初めて分かったので、本当にまいりました。
薄着だったので、寒くて、毎日ぶるぶる状態でした。

クリスマスの日の夕方に、ハイファという港町に着きました。
イスラエルの中では大きな都市でして、有名な港町です。
バスを降りた瞬間、「うわ〜寒いなぁ〜」という感じで、まずホテルを探し始めました。

「早く、暖かい部屋でのんびりしたい!」

ところが、あちこちホテルに行ってみたものの、どこへ行っても閉まっているんですね。
その港町にホテルやユースホステルはたくさんあるのに。
どうしてだろう?時間がどんどん過ぎていって、夜7時、8時、9時、・・・外はものすごく寒いんですよ。
ハイファには、誰も知っている人はいないし、一人旅だし、ひどく心細くなりましてね。
「俺って、もうここで終わりかな?」なんて、縁起でもないことを考えちゃいました。
できるだけ明るいにぎやかな通りを歩こうと思いながら、肩をガクッと落としてトボトボ歩いていました。

にぎやかな通りも、夜遅くなってくると灯りがだんだん消えてきましてね。
本当に心細くなってね、本気で「もう〜ダメかなぁ〜」と思ったそのときに、1人のニコニコしたおばあさんが僕のほうへ近づいて来たんです。

「どうしたんですか?顔色が悪いですよ」

と英語で話しかけてきました。
イスラエルのユダヤ人は英語がけっこう上手でしてね。

「日本から来た者なんですけど・・・、泊まるところがないんです」

それから5分くらい話をしたでしょうか。
そのおばあさんは微笑んで、

「よかったら、私の家へどうぞ」

と言いました。
いや〜、驚きました。
僕たち、日本にいても、同じ日本人にだって、そんなこと言いませんよね。
だけど、そのおばあさん、見ず知らずの外国人の僕に、私の家へどうぞって言うんですよ。
僕もさすがにちょっと構えましてね。
すぐに「うん」と言わずに、

「もうちょっとホテルを探してみます。それで、もし見つからなかったらおじゃまするかもしれません。そのときはよろしくお願いします」

と言って、紙に住所と簡単な地図を書いてもらい、その後タクシーに乗ってホテルを再び探し始めました。
でも、結局、どのホテルもみんな閉まっていて、営業しているホテルは見つからなかったんですね。
もう、おばあさんのところへ行くしかないなあ〜と思って、勇気を振り絞っておばあさんの家に行ったんですね。

おばあさんの家を見て、唖然としました。
その家は外壁の一部は草で覆われていましてね。
驚いたことに窓がないんですよ(翌日、明るくなってからまた見たんですけど、確かに家の外には見かけ上、窓はあるのですが、家の中にはどこにも窓がないんですね。まるで棺桶みたいな家)。
それで、玄関が少し高いところにあり、階段をちょっと上がるとドアがありました。
ドキドキしながら、「ピンポン」とボタンを押したんですね。
すると、押すや否や、すぐにドアが開いて、

「お待ちしておりました」

とおばあさんが出てきました。
ヒャー、心臓が飛び出るかと思いました、もう驚いちゃって。
おばあさんはドアのところにいて、待っていたんでしょうかね。

「どうぞ、どうぞ。寒いでしょ。中へどうぞ」

「は、はい。お、おじゃまします」

外は本当に寒くて、手が凍えてね。
でも家の中はとっても暖かい。
驚きはしましたけど、救われた思いでいっぱいでした。
おばあさんは、「スープがあるわよ、食卓へどうぞ」と言うので奥へ入ると、丸いテーブルがあり、スープが2皿盛ってありました。
おばあさんと僕の分なんですね。
そのスープ、口に含むと熱いんですよ。
とってもおいしいし。
ということは、・・・待てよ、おばあさんは1人暮し。
やはり事前に2人分作って、2人分皿に盛って、その後玄関に行って僕を待っていたのかなぁ?なんて考えていると夜も眠れなくなりますよね。
もう、そんなこと考えるのは止めようと思いました。

スープを飲みながら、おばあさんと2人でいろいろな話をしました。
といっても、僕はほとんど聞き役でしたね。
でも、知らない人を自分の家に泊めるんだから、普通なら僕のことをいろいろ聞きますよね。
僕は自分の名前と日本から来た大学院の学生と言っただけで、自分について他のことは何もしゃべりませんでした。
おばあさんはひたすらご自分のことばかり話すわけです。
本当に穏やかな、ニコニコした方でしてね。

「私はね、ドイツから来たユダヤ人なのよ。だから、戦争中はけっこう大変だったの。主人は大学で数学を教えていたの。3年前に亡くなってね。息子夫婦は、隣町に住んでいるのよ。私の趣味はね、・・・」

おばあさんは、僕のことは本当に何も聞かなくて、ただ、僕の目をじっと見つめながら話をするんです。
どうも時々、自分の心が見られている気がして、恥ずかしいというか、妙な気分でした。
だから、僕は時々、視線をそらしていました。
そんな不思議な雰囲気のおばあさんでした。
家の中を見ると変わった飾りや絵が掛けてあって、ユダヤ教の影響かな、と思いました。

時計を見ると、もうだいぶ遅くなっていまして、おばあさんは、

「今日はもう遅いですから、お休みになってください。こちらの部屋にベッドメイキングしてありますから」

「おばあさん、いろいろありがとう。それじゃ、おやすみなさい!」

ということで、ベッドのある部屋に入りました。

ベッドの枕元には、1人の少女の絵が飾ってありました。
その絵がとっても不思議で、目元がボア〜ンとぼやけていましてね。
見ていると魂が吸い込まれそうな、この世のものとは思えないような絵でしたね。
そんな部屋に泊めていただきました。

■おばあさんの贈り物

次の日の朝、目覚めたら、おばあさんはすでに起きていました。

「おばあさん、おはようございます」

「おはよう。さあ、こちらで一緒に朝食をとりましょう」

パンとスープをごちそうになりました。
そのとき、おばあさんがニコニコしながら、

「今日ね、私の息子夫婦がうちに来るのよ。一緒に国内を旅行することになっているの。私は数日不在するけど、五日市さん、ここにいたかったら、もっと泊まっていってもいいのよ」

1人で泊まってもいいなんて、びっくりです。
僕のこと信頼してくれたんだな、と思うとうれしかったですね。

僕は、実はこの町で個人的に調べたいことがあり、できればもう1日滞在したいなと思っていました。
どうせその日も泊まれるホテルは見つけにくいだろうと思ったものですから、お言葉に甘えてもう1日泊めてもらうことになりました。
僕1人だけで図々しいかなと思いましたけどね。

その後、しばらくすると、息子さん夫婦がやって来て、「どうも、はじめまして」と挨拶し、握手しました。
すると、おばあさんは、

「じゃ、私行くからね。あとはよろしくね」

と言って出かけようとしました。
そのとき、

「あっ、そうそう、忘れてた、忘れてた」

と言って、寝室に戻り、何やら箱を2つ持ってきたんですね。
そして、

「これ、あなたにあげるわ」

と言って、差し出してきました。
僕は箱を受け取りはしましたが、

「いや〜、そんな。おばあさんにこんなにお世話になりながら、贈り物までもらうわけにはいきませんよ」

と遠慮しながら言いましたら、それまでニコニコしていたおばあさんが急に真剣な顔をしまして、

「そうですか。それなら、買ってください」

と言うのです。
意外な言葉にギョッとしました。

「お、おいくらですか?」

と聞きましたら、

「そりゃ、いくらでもいいわよ」

まさしく、1円でも千円でもいい、というような感じなんですね。
僕は学生でしたし、そんなにお金があるわけではないのですが、お世話になりましたので、1万円相当の現地のお金をお渡ししたんです。
1万円相当というと現地の方にとっては、とても大きなお金だと思うんですね。
そのとき、おばあさんが、どうしてこんなことを言ったのか未だに分からないのですが、

「やっぱりね」

と、ポツリと言いました。

「だけど五日市さん、1つだけ約束してね。あなたの誕生日が来たら、箱を開けてね」

「えっ、どうして誕生日に?」

「開けたら分かるわよ」

つまり、僕の誕生日が来たら、2つの箱のうちの1つを開けてね。
そして次の年の誕生日が来たら、もう1つを開けてね、と言うのですね。
その2つの箱は、外観上同じではなく、1つは大きくて白い箱、もう1つは小さくて黒い箱でした。
大きい箱は軽く、小さい箱はやや細長くて重量感のある重さでした。
玉手箱みたいですね。
そのときは、あまり気になりませんでした。

おばあさんとお別れした後は、もう1泊させていただいて、その後約3週間、イスラエル国内をあちこち旅行して回り、日本へ帰って来ました。

■1つ目の箱

長いイスラエル旅行から戻り、自分のアパートに着いてかばんを開けますと、箱が2つ出てきました。

「あぁ、あのおばあさんからいただいた箱だ。何が入っているんだろう?だけど今、開けちゃいけないんだよなぁ〜」

そう思い、箱を本棚の上に置いたんですね。

それから半年くらい経ち、僕の27歳の誕生日がやってきました。
学生生活最後の年の誕生日です。

「今日は俺の誕生日。そうだ、おばあさんからいただいたあの箱、開けなきゃ」

本棚を見ると、大きい白い箱と、小さな黒い箱がありました。
どっちにしようかなぁ・・・僕はどっちかというと、いつも大きいほうを選ぶ癖があるもんですから、軽いけど大きい箱を選んじゃいました。
まぁ、それなりに軽い物が入っているんだろうなと思って開けたのですが、「あれ?」意外にも何も入っていませんでした。
何も入っていないような軽さではないと思っていたんですが、実際、開けたら空だったということです。
変な話ですよね。
別に、気味が悪いというより、おばあさん、何かを入れるのを忘れたのかなぁと思いました。
だって、「開けたら分かるわよ」と言ってましたからね。
でも、これじゃ分かんないよ。
おばあさん、それはないでしょう。
という気持ちでしたね。
まあ、とは言え、それはそれで終わりでして。
もう1個の小さい箱は重量感がありますので、空ということはあり得ません。
絶対に。

それから半年くらい経ったある日のこと。
寝ているときにおばあさんの夢を見ました。
どんな夢か具体的なことは何も思い出せないのですが、とにかくニコニコしたおばあさんが夢の中に出てきたわけです。
その後、真夜中にもかかわらず目が覚めて眠れなくなり、ガバッと起きてしまいました。
それまで、もう1つの箱についてはあまり関心がなかったのですが、「あの黒い箱には、いったい何が入っているんだろう?」と、急に好奇心が出てきましてね。
ますます眠れなくなりました。
「約束を破ることになるけど、思い切って開けよう!」急に胸がドキドキしてきました。
無意識に部屋の中をキョロキョロと見回して、誰もいないことを確かめました。
1人住まいだから、誰もいるわけないのにね。
それだけ妙な緊張感が高まっていたんです。
そして、ベッドを離れて本棚のところに行きました。

そしたら、「あれっ?」本棚を見ると、箱が見当たらない。
どこに行ったんだろう?そうか、本棚の後ろに落っこちたのかなぁと思って、本棚をずらして後ろを見たんですが、ない、「そんなバカな。どこに置いたんだよ」部屋中、あちこち探し回ったんですが、どうしても見つからない。
ますます気になりますよね。
「俺が約束破って開けようとしたから、おばあさんがどこかに隠したのかなぁ」なんて変なことを考えたりしてね。
そう思えば思うほど気になっちゃって、結局、朝まで探したんですね。
でも、どこにもありません。
胸がますますドキドキしてくるし、これはやばいぞぉと思って、怒られるのを覚悟で、イスラエルのおばあさんのところに電話したんですね。

電話事情が悪いせいか、なかなか通じにくかったんですけど、何回目かにようやく通じました。
そしたらおばあさんの息子さんが出てきまして、なんと、おばあさんは3か月前に亡くなっていたそうなんですね。

「いや〜、そうだとは知りませんでした。あの〜、ご承知かもしれませんけど、おばあさんから別れ際に箱を2ついただきましてね。誕生日に開けてと言われましたので、1個目を開けたら、空だったんです。それで、もう1つ・・・」

と僕が言った途端に、その息子さんは、

「あんた、開けようとしただろう?」

「えっ」

一瞬、心臓が止まるかと思いました。
息子さんは、続けて低い声で、

「誕生日が来る前に、開けようとしただろう?」

僕は、震えちゃってね。
声が出なくなりまして、こういう場合、どんなことを言ったらいいのでしょうね。
それから向こうのほうも、僕と同様に何も言わなくなったんですよ。
お互いに黙り込んでしまった・・・。
と言っても、これは僕からかけた国際電話ですからね。
高額の通話料がどんどん飛んじゃうわけですよ。
「何かしゃべらなきゃ」と思うのですが、何も言葉が出てこなくなってね。
何か言ってよ〜と思いながらも、沈黙が続きました。

それでも勇気を振り絞るように、恐る恐る、

「だ、だ、だけど、あの箱には何が入っていたんでしょうね?」

と白々しいことを聞いてみたんですね。
そしたら、その息子さん、気になることを3つ言いましてね。

1つは、

「恐らく、うちのお袋が一番大事にしていたものでしょうね」

2つ目、

「大丈夫、必ず出てきますよ」

「えっ、でも、いくら探しても見つからないんですが」

と言うと、

「いや、出てきますよ。もしかすると、あなたの誕生日に」

そして3つ目、

「それは、あなたに幸せをもたらすものでしょう」

英語でのやり取りですから、多少ニュアンスが違うかもしれませんが、たぶんこのような意味だと思うんですね。
息子さんから聞いた言葉の意味はそれぞれ分かったのですが、どうもその3つの言葉のつながりが理解できません。
とにかく、電話はそうした会話で終わりました。
これは12月の話なんですが、1月、2月、そして3月には、僕は大学から学位をいただきまして、ようやく就職。
大手化学会社の長野県の事業所に配属となり、そこの独身寮に荷物を移すことになりました。
3月の下旬に、それまで住んでいたアパートを引き払うためにどんどん荷造りして、部屋のあちこちを掃除しました。
一所懸命掃除していると、どこからか黒い箱が出てくるのではと少しは期待したんですがね。
残念ながら、どこにもありませんでした。

それから会社の寮に移りまして、それが4月。
そして5月、6月となりました。
僕の誕生日は7月なんですね。
6月に、以前住んでいたアパートの近くに住む、親しいおばさんから電話がかかってきて、

「五日市君、元気?まだ独り?」

と言うので、

「うん、独身だよ」

と答えると、

「素敵な女性がいるんだけど、会ってみない?ねっ」

とびっくりするようなことを言ってきました。

「へえ〜、いいねえ」

早速、週末にその女性に会いに豊橋まで行くことになりました。
車で高速道路を使って3時間くらい。
ワクワクしていたせいか、その時間はとても短く感じられました。

そして豊橋に着いて、そこで会った女性が、まあ、結果的には今の妻なんですね。
そのとき、初対面だというのに、とても話が合いましてね。
こんなに話が会う女性は初めてだなぁ〜と思いました。
「それじゃ、また来週も会おうか」ということで、また次の週末も豊橋まで行って、彼女に会ったんですね。
それで、あまりにも楽しかったもんだから、「結婚しようか」と言っちゃいました。
早々と。
そりゃ〜相手は驚きますよね。
こんな感じで、一応、形の上ではプロポーズしたんですけど、返事はもらえませんでした。
当然ですよね。
そして、次の週、僕の誕生日が来ました。

■2つ目の箱

僕の28歳の誕生日が来ました。
皆さん、驚くかもしれませんが、あの箱がね、出てきたんですよ。
ヒエ〜。
「どこから?」というと、送られて来たんです。
「誰から?」というと、なんと、彼女からなんですね。
いやぁ、本当に驚きました。
だって、同じ黒いラッピングで長細く、その箱を持った重量感も同じなんですね。
それは僕しか分からないことなんですが、間違いなくあの箱。
もう腰が抜けそうで、震えちゃって、怖くて開けられないんですね。
そこで、すぐに彼女の家に電話をかけました。
彼女が出ると、

「こっ、この箱、いったいどうしたんだ!」

と大声で聞きましたら、彼女はびっくりして、

「どうしたもこうしたもないでしょう。今日はあなたの誕生日じゃないの」

「えっ?」

彼女は僕への誕生日プレゼントということで、それを豊橋駅前のデパートで買ったと言いました。
あれ、そうなの?と意外に思いましたが、それでも緊張しながらそっとその箱を開けてみました。
すると、中にはペンが入っていたんですね。
ギフト用のペン。
そのとき僕は、あの息子さんが言った気になる3つの言葉を思い出しました。

1つは、「恐らく、うちのお袋が一番大事にしていたものでしょうね」

おばあさんと2人で話したときの状況を思い浮かべると、おばあさんは僕のことを何も聞かないで自分のことばかりしゃべっていましたが、その中で、自分の趣味の話もしたんです。

「五日市さん、私の趣味はね、ペン集めなの。このペンはね、ドイツに旅行に行ったときに買ったものなのよ。ちょっと変わってるでしょ。こっちのものはね、アイルランドにいる友達が送ってくれたものなのよ。かわいらしいでしょう」

おばあさんが大事にしていたものは、「ペン」なんですね。

2つ目。「大丈夫、必ず出てきますよ。もしかすると、あなたの誕生日に」

本当に、これがそうなんでしょうか。

そして3つ目。「それは、あなたに幸せをもたらすものでしょう」

その黒い箱の中には、彼女からの手紙も入っておりまして、僕のプロポーズに対する返事が書いてありました。

■運命・感謝・ありがとう

不思議な話ですよね。妻にこの話をしましたら「え〜、そんなことがあったの〜」と言って泣き出しましてね。
そりゃ驚きますよね。
だけど、考えれば考えるほど、このおばあさんは何者なのだろうと思ってしまいます。
やはり魔女?まさかね。

おばあさんの家に泊めていただいた最初の晩、おばあさんと2人きりで話をしていたとき、一方的にいろいろな話を伺ったのですが、いくつか強く印象に残っていることがあるんですね。
例えば、

おばあさん「五日市さん、運命というのはね、あるのよ。私たちの人生はね、最初からほとんど決まっていたのよ」

僕は、その類の話にはあまり関心がないので、「まぁ、あるかもね」と相づちを打ちました。
続いて、

おばあさん「私、ユダヤ教徒の人間だけど、『生まれ変わり』を信じているの。過去世や来世というのはあると思うわ」

このことについても、あまり関心がなかったので、「うん、あるかもね」すると、おばあさんは、

おばあさん「ツイてる、ツイてない、という『ツキ』というものもあるのよ」

と言うので、「そりゃあ、あるんだろうね」と応えましたら、

おばあさん「そのツキというのはね、簡単に手に入るものなのよ」

「えっ?・・・どうしたら手に入るんですか?」

おばあさん「ツキを呼び込む魔法の言葉があるのよ。これさえ唱えていれば、誰でもツキっ放しになるわよ」

「本当?どんな言葉かな。難しい言葉?」と聞くと、

おばあさん「すご〜く簡単で、単純な言葉よ」

「何、なに?教えてくださいよ」

おばあさん「いいわよ。誰でもよく使う言葉なんだけど、2つあってね。1つは『ありがとう』、もう1つは『感謝します』ねっ、簡単でしょ」

「・・・月並みな言葉なんですね。どう使い分けするんですか?」

おばあさん「もちろん、どんなときでも自由に使っていい言葉なんだけど。そうねぇ・・・、ある状況のときに、これらの言葉を使い分けたら効果的かもね。『ありがとう』という言葉は、そうね、何か嫌なことがあったときに使ったらどうかな。例えば、朝寝坊しちゃって、「わぁ〜、学校に遅刻する!」とか、「会社に遅れる!」なんてとき、イライラするでしょ。 そんなとき、「イライラさせていただき、ありがとう」と言うの。車を運転中、事故っちゃった、そんなときも「ありがとう」。五日市さん、あなたの親が亡くなっても、歯を食いしばって「ありがとう」と言うのよ。どうしてかというとね。イヤなことが起こるとイヤなことを考えるでしょう。そうするとね、またイヤなことが起こるの。不幸は重なると言うけれど、それは、間違いなくこの世の法則なのよ。 だけど、そこで「ありがとう」と言うとね、その不幸の鎖が断ち切れちゃうのよ。それだけではなく、逆によいことが起こっちゃうの。「災い転じて福となす」という言葉があるでしょう。どんな不幸と思われる現象も、幸せと感じる状況に変えてくれる。絶対にね。だから、『ありがとう』という言葉はね、魔法の言葉なのよ・・・」

僕があるとき、自分の部屋でボ〜ッとしながら、おばあさんが言ったことを思い出していると、たまたま目の前にペンと紙があったんですね。
何気なく、おばあさんが言ったこの「ありがとう」という言葉を漢字で書いてみましたら、な、なんと、『有り難う』。
ドキッとしましたね。

「ああ、そうか。難が有るときに、『有り難う』か!」

偶然の一致にしては、スゴイですよね。
おばあさんは漢字を知らないはずなのに。

それから、もう1つの「感謝します」という言葉については、おばあさんは次のように言いました。

おばあさん「そうねえ、何かよいことがあったら、『感謝します』と言ってみてはどうかな。例えば、明日、待ちに待った運動会。晴れてほしいなぁ〜と思っていて、実際に晴れたら『感謝します』」

おばあさん「そうそう。この言葉はとても便利でね。たとえまだ起こっていない未来のことでも、「明日、晴れました!晴れさせていただき、感謝します」とか、「1週間後、○○○に合格させていただき、感謝します」とイメージしながら言い切っちゃうと、本当にそうなってしまうのよ。何の疑いも不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込めればね」

ちょっとつまらない例を1つ。
僕はこのように太っていまして、運動不足気味なので月に1回くらい、地元のオジさん、オバさんたちと卓球をやって汗を流しているんですね。
ある日、若くてとっても卓球の強い、市の大会のチャンピオンと呼ばれる人がやって来て、練習試合をさせてもらいました。
もちろん勝てっこないと思ったのですが、まあ〜いいやと思って、試合を行いました。

まず、レシーブ。
「相手のサーブをうまく返させていただき、感謝します」と相手がサーブのたびに1球1球思ったんですね。
そしたらですね、どんどんリードしちゃって、結局ストレートで勝ってしまったんですよ。
な〜んと。
僕よりも実力が上の人に。スゴイでしょう。
そりゃ〜相手は怒りますよね。
「あんなデブになんで俺が負けるんだ!」という顔をして、「もう1度試合をやりましょう」と言われ、結局3回やりましたけどね。
3回とも勝ってしまったんですよ。
僕はこのとき、この言葉は使える!と思いましたね。

そう言えば、イスラエルのおばあさんは、かなり大事なことを言っていました。
絶対、言ってはいけない言葉があるらしいのですね。
これだけは言っては駄目!という言葉。

おばあさん「五日市さん、言ってはいけない言葉があるのよ。言っちゃうと、ツキが吹っ飛んじゃうの」

「へえ〜、どんな言葉なんです?」

おばあさん「まずはね、汚い言葉。『てめ〜』とか『死んじまえ』とか、『バカヤロー』『クソッタレー』とかね。そういう汚い言葉を平気で使う人というのはね、そういう人生を歩むのよ。だからきれいな言葉を使いなさい」

思い返してみると、僕が学生の頃、そんな汚い言葉ばかり使っていたような気がするんですね。
その頃、人間関係にひどく悩んだり、些細なことで苦しんだりすることが実に多かったんです。
だから、おばあさんの話には、本当にドキッとしましたね。

おばあさん「それからね、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ、絶対ダメ。あなたが自分の部屋にポツンと1人でいるときでさえも、人の悪口を言っちゃダメ。それに、人を怒ってもツキは逃げて行っちゃうわ。怒れば怒るほど、あなたがせっかく積み重ねたツキがどんどんなくなっていくのよ。だから、ネガティブな言葉は使っちゃダメ。分かった?どんな言葉にもね、魂があるの。本当よ。だから、ねっ。きれいな言葉だけを使いましょ」

おばあさんのお話は、何ていうか、決して飛び抜けて変わっているわけではなくて、とても道徳的な話ですよね。
つまり、しゃべる言葉には気をつけようね、ということなんですよ。
自分の口から発する言葉が自分の人生を創る。
今まで、いろいろな指導的立場にある人がこのような「言葉の大切さ」を伝えてきたのかもしれませんが、僕は初めて聞きましたね。
しかも異国の地で。
とにかく、おばあさんが言ったことは、すべて腑に落ちました。

それ以来、ひたすら「ありがとう」と「感謝します」を実践しています。
意外と早くきれいな言葉を使えるようになりました。
そしてもう、人を怒れなくなりました。
本当ですよ。
その結果、自分の人生は、ガラッと変わってしまいましたね。
「ツイてるツイてる、ツキっ放し!」だから、こうしたおばあさんの話、自分では、とってもいい話だなぁ〜と思っているんですね。

■交通事故

実はね、おばあさんに出会ってから今に至るまで、2回交通事故を起こしているんです。
恥ずかしい話なんですけどね。
1回目は学生時代。
豊橋でおばあさんをバイクではねちゃったんです(イスラエルのおばあさんではないですよ。日本人のおばあさんをね)。
僕がスクーターに乗っているとき、道を横切ろうとしたおばあさんにちょっとぶつかり、おばあさん、道脇に勢いよく倒れましてね。
でもそのとき、自然と「ありがとう」という言葉が出たんですね。
信じられないでしょう。
後々、自分でも大したもんだなあと思いましたね。

「お、おばあさん、大丈夫?」

おばあさんはムクッと立ち上がり、しりもちついたお尻をさすりながら、やがてやって来た救急車に誰の手も借りず、ヨイショと自ら乗り込みました。
救急隊の方々は、そんなおばあさんを見て苦笑いしていましたね。
おばあさんは、病院へ運ばれて検査を受けましたが、結局どこも異常なく、僕自身ホッとしました。
この縁がきっかけで、以後おばあさんの家とは家族ぐるみのお付き合いをするようになりました。
おばあさんの家はお茶を作っている農家でして、僕は学生だったものですから、お茶摘みの時期になると、必ず手伝いに行きましてね。
おばあさん、たくさんアルバイト料をくれるんですよ。
2、3時間お手伝いしただけなのに1万円くらいいただきましたね。
僕なんか全然お金がなかったですから、ラッキー、ラッキーという感じでしたね。

それから、中学生のお孫さんの家庭教師もやりましたね。
その男の子、登校拒否でして、ずっと学校に行っていなかったんですよ。
でも立ち直ってくれて、とっても嬉しかったですよね。
おばあさんも大喜びでした。
今では彼は大学を出て立派な社会人。

あっ、そういえば、僕の結婚披露宴のときなんか、そのおばあさん、自ら進んで趣味の太鼓を叩いてくれたんですよ。
三河太鼓と言ってね。
あれは見事でしたね。
本当に素晴らしかった。
バイクでひいたおばあさんに、まさか自分の披露宴で太鼓を叩いてもらうなんてね。
信じられますか?

それから、会社に就職してからのことですが、車で正面衝突をしてしまいました。
僕はカローラに乗っていたんですが、前から若い奥さんの運転するルシーダが僕の車線にいきなり入って来たんですよ。
すれ違う直前でした。
僕としてはど〜することもできない。
モロにガチャ〜ンと正面衝突!
僕の車線に入り込んでからぶつかる瞬間まで、その奥さんは前を見て運転できていませんでした。
どうやら、後部座席の3歳くらいの娘さんに気を取られたようですね。
お互いの車の前方はグジャグジャになってしまいました。

でも、そのときも、ぶつかる瞬間「ありがとう!」と大声で言えたんですね。
するとね、妙に心が落ち着き、全然怒りが出てこないのですよ。
普通でしたら「このヤロー、人の車線に勝手に入って来やがって、どこ見て運転してるんだ!」とか何とか言って怒るじゃないですか。
それが、不思議と怒る気分にならなくて、むしろ相手の体が心配になって、「大丈夫ですか?」と声をかけたんですね。

「あれ、娘さん、口元を少し切ってるね。大丈夫かなあ。すぐ病院に連れて行こうか」

という具合でしたね。
そうすると、その奥さんが、

「す、すみません、私の不注意で。すみません。すみません」

「しょうがないよ。別にわざとやったんじゃないのだから」

なんて言葉が自然に僕の口元から出てくるんですね。
その後、すぐにご主人とおじいさんが飛んで来て「すいません、すいません」と頭を何度も下げられました。
お互いケガがなかったし、全然怒る気分になりませんでした。
まあ、普通でしたら、事故にかかわるとお互いムキになって自分の正当性を主張し合い、そのためにうそも平気で言ったりして、人間の一番イヤな面が出やすいですよね。
やれ保険だの、示談だの。
おまえが悪いからもっとカネ払えとか。
人間のドロドロした部分が思いっきり出て、お互いイヤな思いをすることが多いですよね。

もし、事故直後、僕がその女性を怒鳴っていたらどうなっていたでしょうか?
もしかすると、交通事故にありがちなドロドロ劇の始まりでしょうね。
どうしても、そうなっちゃうんです。
言葉って怖いですよね。

こんな衝撃的な事故がきっかけでその家族と知り合え、実は今でも家族ぐるみのお付き合いが続いています。
彼女のご主人は、ある有名なコンビニの大幹部でしてね。
そのコンビニの幹部研修会が定期的にあるんですけど、その外部講師として僕が毎回呼ばれるようになったんですね。
人の出会いとは不思議なもんですね。

まぁ、つまらない例でしたけど、やはり、口から発する言葉のエネルギーというのはスゴイな〜と実感しましたね。

ところで、先ほど箱の話をしましたよね。
あの話がつじつまの合う首尾一貫した話だとすると、1つだけどうしても分からないことがあるんですね。
最初に開けた箱が空だったでしょう。
「開けたら分かるわよ」とおばあさんが言ったのに、分からないんですね。
ず〜っと考えていたのですが。
でもあるとき、分かったんですよ。
空の意味が。
これからちょっとの間、その話をさせていただきますね。

■不良少女の家庭教師

僕は宮城県内の中学校を出たあと、同じ県内にある高専(国立の工業高等専門学校)に入学しました。
最初から、1人でアパート住まいをしまして、けっこう自由で楽しかったんですが、洗濯や食事の用意は面倒でしたね。
洗濯が面倒なもんですから、下着や靴下以外は近くのクリーニング屋さんに全部持っていきましてね。
だからほとんど毎日通っていました。
そこのクリーニング屋のおばさん、いい人でね。
僕が行くといつも、

「五日市君、いつも来てくれてありがとう。おにぎり1個余っているんだけど食べない?このみかん、ちょっと腐りかけているけど、どう?」

とかね。
温かいおばさんでね。

僕が高専2年のある日、そのおばさんが真剣な顔して、

「五日市君、お願いがあるの。家庭教師やってくれない?」

「そんな、僕、人の勉強なんてみたことないし、自分の勉強だけで精一杯だよ」

「中3になったばかりの女の子なんだけどね」

とおばさんが言ったもんですから、ビビッときまして、

「はい、やりま〜す!」

という具合で、決まり。
そりゃ〜それまで女の子には縁がありませんでしたから、ワクワクドキドキ。
断るわけないですよね。
それでまずは、その子のお母さんと喫茶店で会うことにしました。

話をいろいろ伺って分かったのですが、実はその子というのは、筋金入りの不良少女なんですね。
それまで埼玉県のある市に住んでいて、中学2年の終わりまでに、煙草、シンナー、窃盗、恐喝などなど、落ちるところまで落ちていって。
今でこそ茶髪は当たり前な風潮ですけど、当時彼女は、はるかにその上をいく真っ赤なヘアーで超クルクルパーマだったんですね。
中学1、2年なのに。ほとんど学校に行ってなくて、暴走族の連中と遊びまわり、売春で補導されたこともあったそうです。

それらが原因で少年院を何度か往復した子なんですね。
大きな問題が起こるたびに中学校を転々として、もうこれ以上行くところがな〜い、という特殊な事情で宮城県にお母さんと一緒にやって来たのです。

お母さんは、クリーニング屋のおばさんと昔からの知り合いだったらしく、そのおばさんを頼って、わらにもすがる思いで宮城県に来たようなんですね。
2人は小さい借家を借りて、もう1度ゼロからの出発。
お父さんはもちろん仕事があるから、埼玉の家に残って単身赴任みたいな形になっちゃったんですね。
僕はそのお母さんに言われました。

「うちの娘は高校に入れないのは分かっています。一人っ子ですし、よい友達もまだいませんので、どうか話し相手になってくれませんか」

何が何でも成績を上げて高校に入れてほしいと言われるんじゃないかなと思っていただけに、気が少し楽になりましたね。

その子ね。
会ってみると、とってもよい子なんですよ。
僕には妹がいないせいか、本当の妹のような感じでね。
歳は2つ違い。僕は高専の2年生、彼女は中学3年生。
僕にとっては本当によい子なんですよ。
僕の言うことは大抵きいてくれました。
例えば、彼女、ラジオの深夜放送をよく聴いていたんですけど、

「深夜放送はあまりよくないぞ。受験生だからなあ、夜遅くまでラジオを聴くのはできるだけやめよう、ね」

と言うと、

「そうだね」

と言ってすぐにやめるしね。
漫画本もよく読んでいましたが、

「あのさ、漫画本を読んでもかまわないけど、少しずつ減らしていこうか。宿題とか、いろいろやることあるもんな」

と言うと、

「は〜い」

と言ってそのうちまったく読まなくなったんですね。
そう言った僕は思いっきり読んでいましたけど。
僕にはとっても素直でよい子なんですね。

でも、なかなか直らないクセのようなものがあったんですね。
何かと言うと、万引きなんですよ。
ある日、僕が彼女の部屋に入ると、彼女は机の上にかばんを置いて、中から化粧品をパカパカ取り出しましてね。

「これね、今日の収穫よ」

「おまえ、またやったのか!」

「はいっ、これ、牛革の財布。先生へのプレゼント」

「困ったヤツだな〜。今度やったら、承知しないぞ」

と言いながら。
財布をチャッカリいただいちゃいました。
前から欲しかったんだ、ラッキー!いやはや僕も同罪ですね。
万引きはその後、徐々にやらなくなりました。

彼女は勉強するにも予備知識がほとんど何もないので、宿題を出してもまったくできないんですよ。
宮城に来る前は、あまり学校へ行っていなかったからしょうがないですよね。
僕と一緒のときしか勉強が進まない状況でした。
例えば、数学の勉強のときにね。
「2-1」は分かるんです。
だけど、これが「-1+2」になると分からない。
答えは同じでしょう。
これを分からせるのに時間がかかりましたね。
それから、理科の天体。
彼女は自信を持って、

「太陽はね、北から昇って南に沈むの」

と言うのですが、

「それはちょっと違うんじゃないかな?」

と僕が言うと、

「あっ、そうそう、天才バカボンの歌であったわね。♪西から昇ったお日様が、東に沈〜む♪」

という具合です。
別に彼女はふざけているわけではなくて、本当に知らないのです。
その時点での知識レベルは、恐らく小学生の低学年くらいかもしれません。
だけど、唯一救われたのは、彼女と僕はウマが合っていた、ということです。

夏休みが来ました。
夏休みというのは、受験生にとっては1つの分岐点なんですね。
よい方向にも悪い方向にも行く大事な時ですよね。
彼女は、どんな友人にもけっこう気持ちを左右されやすい性格なのです。
幸いにも、彼女が転校した学校の環境はとてもよくて、あまり道を外れた生徒はいなかったんですね。
彼女は転校と同時に髪を(赤パーマから)自然な黒のストレートに戻していましたから、外観上も普通の女の子と変わりなく、とくに目立つことはありませんでした。
成績がビリという点では目立っていたかもしれませんね。
とにかく、夏休みということで、何かと心配だったものですから、彼女の家にはできるだけ頻繁に通いました。
それだけ「彼女をもっとよい方向に導きたい」という気持ちが強かったわけです。
いつもは、夕方におじゃまし、まず夕食をご馳走になって、その後彼女の勉強をみて、だいたい夜10時頃に帰るというパターンでした。

夏休みのある日、こんなことがありました。
勉強をみていて、ハッとして時計を見たら夜中の2時を回っていたんですよ。

「うわ〜、お母さん、ごめんなさい。こんなに遅くなっちゃって、じゃあ僕、帰ります!」

と言うと、お母さんが、

「先生も夏休みでしょう。今晩泊まっていったらどうです?」

と言うので、

「ん〜、そうですね。じゃあ、今日は泊めてもらいますか」

ということで、泊めていただくことになりました。
お風呂をいただきまして、さて寝ようかなぁと思いましたら、お母さんが気を利かせて、彼女のベッドの隣に布団を敷いてくれてたんですね。
さすがにドキッ!としました。

彼女と僕はそれぞれベッドと布団の中に入って、電気を消したんですが、お互いなかなか眠れません。
勉強を教えるときはいつも2人きりではありますが、こんな変な緊張をしたことなんてなかったですね。
しばらく、ちょっとドキドキしていました。
すると、彼女も眠れないので僕にいろんなことを言ってくるんですね。

「あのね、中1のときにね、こんなことがあったんだ」

「少年院というところはね、こういうところなんだよ」

「中2のときに、学校の女子トイレでこういうリンチを受けたんだ。悔しかった。誰も助けてくれなかった」

「宮城に来る前はね、こんな男性と付き合ってたの」

さらに先に進むと、

「こういう人と深い関係になっちゃったの」

何もかもびっくりする話ばかり。
僕の体は石みたいにガチガチになって、彼女に対して相づちしか打てませんでした。
皆さん、「はひふへほの相づち」って知っていますか?
「は〜、ひぇ〜、ふ〜、へ〜、ほ〜」それしか言えなかったんですね。
中でも一番驚いた話は、

「○○○という偉い人とも・・・したの」

ということなんですよ。

「そ、そんなこと、あるわけないだろう!何かの間違いだろう?」

と言いましたら、

「いつもは、暴走族の仲間にお客を紹介されて、モーテルに行くのね。ある日、お金を支払わずに逃げたお客がいてね、とっても悔しい思いをしたの。それでね、その次のお客のときなんだけどね。お客がお風呂に入っている間に背広のポケットから財布を取って、逃げられてもいいようにと1万円引き抜いたんだ。そのとき、財布の中に同じ名刺がたくさんあったの。あ〜、この人の名刺なんだな〜と思って、何気なく1枚取ってね。次の日、自宅に帰った後に、しげしげ見てみたら、そういう肩書きがあったのよ」

彼女は淡々と僕に語ってくれました。
でも、こうした話、誰にでも言えるようなことではありません。
僕は、彼女の話を聞いて「この世の中、いったいどうなっているんだ」と真剣に悩みましたね。

考えてみると、僕たちだって人に話せないことを自分の心の中に閉じ込めてしまうことってありますよね。
それがどんどん蓄積されて限界に近づくと、悶々として頭がおかしくなってくる。
そんなとき、信頼できる人に話すことによって「救われる」ことがあるじゃないですか。
ご主人に言って、あるいは兄弟に言って。
「あ〜そう。分かるよ、おまえの気持ち」と言われただけで、救われるもんですよね。
彼女にはね、そんな話を聞いてくれる相手がず〜っといなかったんじゃないかな。
親にはこんな話言えないでしょう。
兄弟はいないし、友達だって、ろくな友達はいなかった。
学校の先生にだって言えない。
だから、僕しかいなかったのでしょうね。
僕にいろいろ言ってスカッとしたと思います。
結局、朝まで話していました。
彼女は、それからというもの、すご〜く生き生きしちゃってね。
まるで生まれ変わったみたいでした。

9月に入って2学期が始まると、すぐに実力試験がありました。
その結果が数日後に出て、彼女の点数は5教科500点満点中で100点ちょっと。
だから、1教科の平均が20点くらい。
周りと比較すれば、相変わらずビリですよ。
ビリだけども、それまで500点満点中、10点か20点くらいしか取れなかった彼女が、自分の力で、100点ちょっと取れたわけですよ。

「おまえ、やればできるじゃないか!」

「うんっ!」

と彼女はと〜っても大喜び、本当に嬉しそうでした。
そりゃ〜確かにそれでも彼女はビリです。
でも、人との比較なんてどうだっていいじゃないですか。
『本人がどれだけ成長したか』が何より大事ですよね。
そうでしょ。
それが一番大事。
それから彼女はますます変わりましたね。
もう〜勉強が楽しくなっちゃって。
夏休みまでは、僕と一緒のときしか勉強できなかったのに、自分1人でがむしゃらにやるようになりました。

「英語の単語、がんばって覚えるぞ!」

と言って、新聞の広告紙の裏に一所懸命単語を書いて、家の壁のあちこちに貼りまくりましてね。
トイレにまで貼って、「おしっこ1回する間に単語1つ覚えるぞ!」と意気込みがスゴイ。
本当にすごいんですよ。
日曜日なんて、ご飯を食べている時間以外はほとんど勉強するようになりました。
まいりましたね。
人間、ここまで変わるものなんでしょうか。
恐らく、彼女の成績は、11月から12月にかけて1番伸びたのではと思います。

冬休みが来ました。
僕は毎日彼女の家に行きましたね。
これが本当の二人三脚って言うのかな、なんて思いたくなるくらい、息が合っていましたね。
そして、冬休みが明け、中学生活最後の実力試験があったんですね。
それは、宮城県内の中学3年生が全員受ける民間業者の模擬試験なんです。
何万人と受けて、自分のその時点での実力を確認する試験なのです。
その試験結果が2週間後に出ました。
ねえ皆さん、その試験で彼女は何点取ったと思いますか?
僕は未だに覚えているんですけど、(500点満点中)468点取ったんです。
信じられます?
当時、業者の試験は本当に難しかったんですよ。
400点取るだけでも至難の業。
それを468点も。
彼女の学校はマンモス校なんですが、男女合わせてナント2番。
県内でも女子の部門でベスト50の中に入りました。
ウソみたいでしょう。
でも本当なんです。
こりゃ〜彼女、ムチャクチャ喜ぶだろうなと思うじゃないですか。
ところが、彼女はしくしく泣いていましてね。

「誰も信じてくれないの」

それもそのはずでして、困ったことにその業者の試験というのは土日にあって、つまり、土曜日に受けた学校と日曜日に受けた学校があったわけです。
彼女の学校は日曜日だったものですから、

「おまえ。土曜日受けた学校の連中に聞いたんだろう」

と何人かのクラスメートに言われたそうですね。
おまけに、学校の教頭先生も家に電話をかけてきまして、

「お母さん、いったいこれはどういうことですか。こんなこと、あるわけないでしょう」

と最初から疑って、お叱りの電話です。
そんなアホな。
それでも教育者か。
なんで彼女を信用しないんだ。
彼女はね、自分の力でその点数を取ったんです。
最近の彼女を見ていれば分かるでしょう。
どうしてそんなことが分からないのかなあ。
と思いましてね。

「もう泣くなよ。こうなったら難関の学校に合格しちゃってさ。みんなを見返してやろうぜ!」

と彼女に言ったんです。

当時の宮城県の中学生は、できれば公立高校に入りたいと思っていたんですね。
授業料も安いしね。
入試のシステムとしては、私立高校の試験が先にあって、その後しばらくしてから公立高校の入試があります。
公立高校が本命でも、必ず私立を受験して合格を確かめてから公立を受ける生徒がほとんどなんですね。
そこでまず、私立に願書を出す時期になりまして、お母さんと話をしていると、

「うちの娘は、私立の高校を受けてもムダと言われまして」

「はぁ?どうしてですか?」

と聞くと、

「学校の担任がそう言いました」

こりゃあいったい、どういうことなのだろうと思い、僕は彼女の中学校まで自転車で吹っ飛んで行きました。
そして担任の先生をつかまえて、

「どういうことなんですか?」

と聞いたんですね。
するとその先生は、

「あの子はね、過去に相当問題を起こしているでしょう。実は・・・」

と話し出しました。
その先生は、はっきりと言いませんでしたが、どうやら、県内のいくつかの私立高校では受験生に対するブラックリストが作成されてあるようでして、過去に大きな問題を起こした生徒を受け付けないか、それに近い処置をとる工夫をしているとのことでした。
だから、たとえ担任の先生が内申書をよく書いても、その内申書はそのままゴミ箱行きになってしまうだろう、とのことです。
だから、入試は受けさせてもらえるけど、絶対に受からない。

「じゃー、いったいどうすればいいのですか?彼女は一生懸命勉強して、ここまで這い上がって来たんですよ。どん底から立ち直ったんですよ!」

「そうだね。ぜひ何とかしたいね。・・・ひとつ道があるとすれば、公立の中でも1番レベルが高い学校、宮城第一女子高等学校(通称、一女)。ここを受験してはどうかな。この学校は、ほとんど一発勝負。内申書をあまり考慮しないはず。どうかな?」

宮城一女というと、女子が受験する高校の中では、当時県内のみならず東北でもトップ。
こんな学校、果たして彼女が受かるんだろうか?
でも、ここしかない、ということであれば挑戦するしかない。

そして3月に入り、入試がやって来ました。
その日、僕はアパートにいましたが、朝からずっとそわそわ。
落ち着かなかったですね。
夕方、入試が終わり、ようやく彼女から僕のところに電話がかかってきました。
すると、電話の向こうで彼女は・・・泣いていました。

「どうだった?」

と聞いても泣くばかり。

「どうだったんだよ」

と静かに聞くと、彼女はポツリと、

「ダメだった」

と言うのです。

「どうしてなんだ。あれほど勉強したじゃないか。どうしてなんだよ」

と彼女に言うと、

「分かる問題も出たけど、・・・ダメだった」

彼女はね、試験会場に着くと、張り詰めた雰囲気にすっかり飲み込まれてしまったようなんですね。
自分の席の周りを見てみると、どの子も頭のよさそうな子ばかり。
「なんで私みたいなバカが、こんなところに座っているのかしら」と何度も思ったそうです。
しかも、その会場にいる受験生は、みんなそれぞれ私立の学校を受けて合格していて、いざというときの行き先を確保してこの試験に臨んでいる。
でも、彼女には何もない。
まさしく背水の陣ですよね。

「ああ、落ちたら・・・私どうするんだろう。定時制に行くのかなぁ。浪人するのかなぁ。それとも就職して働くのかなぁ。どれも自信ないな〜。だけど、こんなすごい学校、受かるわけないんだよなぁ・・・」

そう思えば思うほど震えが止まらなくなって、頭が真っ白になって、はっと気がついたら、試験はもう終わっていた、と言うのです。

「でも大丈夫だよ。合格発表は5日後だろう。受かるよ、絶対に」

と慰めても、

「全然何も書かなかったのに、受かるわけないじゃないの」

と言って大声で泣くしね。
まぁ、僕なりに彼女を力づけて受話器を置いたんですが、置いた途端に力が抜けて、その場にうずくまってしまって、3時間くらい起き上がれなかったんですね。

そのとき、それまで彼女と歩んできた1年間の思い出が頭をスーッとよぎりましてね。
短い期間だったけど、彼女はすっかり立ち直ってくれて、こんなすごい高校を受験できる水準にまで到達できて。
そんなこと、当初は想像すらできませんでしたけど、そりゃ〜がんばったもんな。
だけど、たった1回だけの試験で、彼女の努力が報われないなんて、やり切れないよなぁ。
と思いました。思えば思うほど、悔し涙が出てきて・・・。

合格発表までの数日間、地獄のような日々でしたね。
毎日僕は、彼女に会いに行くのですが、出てくるのはお母さんばかり。
本人はショックで落ち込み、部屋に閉じこもって食事すら満足に摂っていない状態でした。

合格発表の日が来ました。
その日は大雨でした。
彼女は友達に誘われたらしいのですが、自分1人で電車に乗って、そっと隠れるようにして結果を見に行ったんですね。
午後3時に合格発表があって、3時10分頃でしたか、電話が鳴ったんですね。
電話の向こうはひどく泣いてる声。
すぐに彼女だと分かりました。

「どうだった?」

と聞いても、泣く一方なんですね。
ずっとその状態で、きりがないなぁと思って。
それでね、こんなときに彼女に言おうと思って準備してきた言葉をそっと伝えたんですね。

「来年、もう1度、一緒に挑戦しようか」

ってね。
そしたら彼女、泣きながら、

「私の番号があったの。受かってたよ!」

(五日市氏は涙ぐむ)すみません、思い出しちゃいました。
彼女ね、家に帰らないで、雨の中、直接僕のところに来ましてね。
まだ泣いているんですよ。
もう、抱き合って喜びましたね。

それからがけっこう大変。
彼女のお父さんがもう狂ったように喜びましてね。
埼玉から僕の汚いアパートまで飛んで来まして、土下座して、おでこを床にくっつけまして、

「先生、本当にありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。・・・」

「そんな、お父さん。頭上げてくださいよ」

もう、すごく喜びましてね。
ところで、後で分かったことなんですが、彼女ね、入試、ビリだったんですよ。
つまり、ビリのグループに入っていて、もう1点足りなければ落ちていたんですね。
すれすれセーフ。
でも、いいじゃないですか。
ビリだってトップだって合格に変わりないですよね。

彼女はその後、勉強一筋。
よく勉強しましたよ。
高校2年生くらいから成績が上位のグループに安定しまして、思い切って地元の国立大学を受験したんですね。
もちろん、現役で合格しました。
すごいですね。
その後、大学院の修士課程に進学し、修了後は宮城県内の市立中学校の社会科の先生になりました。
生徒や父兄から人気があり、生き生きと生徒の指導を行っているんですね。

ところで、彼女が高校を卒業する頃、僕も5年間の高専生活をちょうど終えましてね。
高専の上には技術科学大学という国立の大学が全国に2校(豊橋と長岡)ありまして、僕は豊橋の大学の3年生に推薦で編入することになっていました。
それで、仙台を離れる日、新幹線のプラットホームまで彼女は見送りに来てくれたんですが、もう、彼女、泣いてね。
ず〜っと泣いてる。
「泣くなよ」と言っても泣くんですね。
そのときの彼女の表情が、いまだに僕の脳裏に焼き付いています。

それから豊橋の大学の寮に入りまして、彼女はしょっちゅう電話や手紙をくれるんですね。
電話をくれるということは、僕からも電話をしなければならないのですが、長距離ですからけっこうお金、かかりますよね。
僕にはそんなにお金がないし、手紙を書く暇もない。
けっこう、勉強がきつかったんですね。
だからあるとき、彼女に、

「もう電話は止めよう、手紙も止めよう。その代わり、年に1度、豊橋においで。それまでの1年間、お互いどんなことがあったのか、とことん語り合おうじゃないか」

と言いまして、毎年9月に彼女が豊橋に来ることになったんです。
僕は、8年間、豊橋にいましてね。
途中、2年ほどアメリカに留学しましたので、その期間を除いては毎年豊橋へ来てくれました。

あの白い箱を開けた日は、僕の27歳の誕生日だったんですね。
そのとき、僕はふと思いました。

「俺って、もう27だよなぁ。彼女は25か。お互い、いい歳だよなぁ」

いつだったか、僕は彼女に、彼女と同じ大学に進学した後輩を、

「こいつはいい奴だから付き合ってみたら」

と紹介したことがあるんですね。
だけど、彼女は彼に関して一切何も言わない。
だから、うまくいかなかったのかなぁと思っていました。

「そうか、彼女はもしかして、僕を待っていてくれているんじゃないかなぁ」

僕は27、8まで学生をやっていまして、そのときもまだ学生でしたからね。

「そうか、僕からのプロポーズを待っているんだよ。そうだよ。きっとそうだ」

なんて、勝手に自分ひとりで決め付けちゃいましてね。

「よし、今度来たら、彼女にプロポーズしよう!」

と思ったんですね。
それに、いつもは彼女に安い旅館に泊まってもらっていたんですけど、今回は僕のアパートに泊まってもらおうと思いました。
ただ、四畳半の汚いアパートに寝泊りしていましたからね。
いくらなんでもまずいかな、と思いまして、ちょっとお金がかかりましたが、3部屋ある借家に移りました。
彼女に寝てもらう部屋がこれで確保できました。
彼女の布団も買って、これでオッケー。

いよいよ、待ちに待った9月。
いつもと違った気分で彼女を迎えに豊橋駅へ行きました。

「よく来たね。今回はね、僕のところに泊まってもらうよ」

「ええ、いいわよ」

僕の借家に着くと、まず、いつもの儀式を行いました。
必ず最初に2人で行う儀式。
じゃんけんです。

「じゃんけんぽん!」

とやって、勝ったほうがそれまでの1年間、どういうことがあったのかを一方的に話すわけです。
だってお互い、自分のことを話したくってうずうずしてるんですからね。
勝ったほうから、まるで機関銃のようにしゃべるまくるんです。
早速、「じゃんけんぽん!」とやりましたら、彼女が勝ちましてね。
さて、何を言うのかなあと思いましたら、彼女はニコッと笑って、

「私ね。来年結婚するの」

とびっくりするようなことを言いました。

「えっ?だ、誰と?」

と聞きましたら、僕が以前に紹介した後輩だったんですね。
彼はある大手の製鉄会社に入社し、イギリスへ5年間の出向を命じられたそうなんですね。
それで、

「俺と一緒に行ってくれないかなぁ」

とプロポーズされたそうです。

「いいわよ、学校の先生辞めることになっちゃうけど、悔いはないわ・・・って言ったの」

彼女、とても嬉しそうでしたね。

「そうか。よかったね。幸せになれよ」

次に僕がしゃべる番となりましたが、言おうと思っていたことが言えなくなっちゃってね。
何を言おうかなと思いましたが、

「もしよかったら、これからも今までどおり、年に1回俺のところに来てくれるかなぁ。だけど今度からは旦那と一緒だぞ」

てね。

最初に開けた大きい白い箱、空でしたよね。
大きいけれど空だったということは、どう考えても彼女と僕との歴史だったような気がするんですね。
だけど、開けたら空だった。
後から開けた箱は、小さかったのですが、中身があった。
今の妻には、会ってから2回目でプロポーズして、すぐ結婚しましてね。
結婚して5年ちょっと経つんですけど、未だに今日お話した女の子ほど、妻についての知識はないんですよ。
変な話ですよね。
まあ、仕事とは言え、本当に出張が多くてね。
一緒に生活できたのは、5年のうち半分もないのですよ。
子供は3人いるんですけどね。
妻について、あまりよく分かっていないのです。
それが黒い箱の小さなサイズを象徴しているのですかね。

お話した女の子には、今会ったとして、たとえ何もしゃべらなくたって、表情を見れば何を考えているのかくらい分かりますよ。
それだけ長い2人の歴史があるんです。
だけど、開けたら空だった。
・・・おばあさんは確かに僕にこう言いました。

「運命というのは、あるのよ。最初から決まっているのよ」

最近いろんな人がこのようなことを言っていますね。

「人間、生まれてくる前に自分の人生設計を行い、そしてそのとおり演じ、スケジュールどおりに生きていく」

という。
おばあさんもそんな類のことを言ったもんだから、何かそんなことを僕に伝えたかったのかな・・・。

だから、僕が最初に黒い箱を開けることなんてあり得ない。
あるいは、じゃんけんして僕が彼女に勝つなんてこともあり得ない。
「もし」なんてあり得ない。
最初からそうなっていたんでしょうかね。

■松下幸之助

ツイてる、ツイてると言っていれば、必ずツイてくるんだというのは、何も僕のオリジナルでもなんでもなくて、いろんな人が言っていることだと思うんですね。
僕が初めてこの類の言葉の大切さを知ったのは、松下幸之助に関して書かれた本を読んだことがきっかけなんですね。
ものすごく僕の頭の中に新鮮に飛び込んできた話がありました。
PHP研究所の副社長をしている江口さんという方が書いた記事でして、本屋で偶然目にしました。
とても心に残りましてね。
これはすぐに実践できるぞと思ったんです。
ほんの一部を読ませていただきます。

**************************************************

松下幸之助という人の人生は、その出発点において、決して恵まれたものではありませんでした。
ご承知の方も多いと思いますが、お父さんが米相場に手を出して失敗し、すべての財産を失ってしまいます。
ですから、学校にも行けません。
9歳のとき小学校を中退して、大阪の火鉢屋に奉公に出されます。
十人家族は離散してしまいます。
親兄姉は次々に結核で全員が亡くなっていきます。
松下さんもまた20歳のときに肺尖カタルを患い、病床に臥します。
こういうことは、私にはどう考えても「運が強い」とは思えないのです。
むしろ、「なんて運が悪いのだろう」と思ってしまいます。

ところが、生前の松下さんは、私にいつも「自分はとても運が強かった」と言うのです。

「わしは学校にほとんど行っていなかったからよかった。運が強かった。もし、大学でも行っていたら、分からないことも他人に尋ねることはしなかった。行っていなかったから、分からないのが当たり前。だから簡単に尋ねることができた。おかげでたくさんの人からよい知恵をもらって会社を発展させることができた」

と言うのです。

「体が弱かったのがよかった。運が強かった」

とも言っていました。

「だから、人に仕事を思いっきり任せ、そして人も育ち、優れた人材になってくれた。もし、わしが健康ならば、自分で何もかもやってしまい、人も育たなければ、会社も大きくならなかっただろう」

と言うのです。
こういう話を聞いていると、改めて松下さんが言う、「わしは運が強い」ということは、どういうことなのかと考えてしまいます。

そういえば、松下さんが若い頃、大阪築港から沖にあるセメント会社でアルバイトをしていたときの話です。
その会社まで小さな蒸気船で通っていましたが、ある夏の日の夕方、船の縁を歩いてきた人が足を踏み外し、ちょうどそこに腰掛けていた松下さんをつかみ、もろとも海に落ちてしまいました。
その話を聞いて私は、なんと「運が悪い」と思ってしまうのですが、松下さんに言わせると、「運が強いから助かったのだ」と言うのです。

「冬であれば、体の弱い自分はそれで一層病気が進むか、ひょっとしたら死んでいたかもしれない。それに多少の泳ぎもできたし、すぐに船が気づいて戻って助けてくれた。実に自分は運が強い」

と言うのです。

次のようなエピソードもあります。
会社を始めた頃、松下さんが自分で造った製品を自転車の荷台に乗せて電車道を走っていたところ、転んでしまいました。
製品は飛び散る。
大勢の道行く人たちは一斉に立ち止まって見る。
おまけに後ろから電車が来た。
わずかなところで停止してくれましたが、そのようなことがあったそうです。

この話も運が悪かったように私には思われるのですが、松下さんはこれも、「自分は運が強かった」と考えているのです。
転んで大勢の人に見られた恥ずかしさよりも、電車がわずかのところで停止してくれた、轢かれずに済んだことを「自分は運が強い」と捉えているのです。

こうした松下さんの「出来事の肯定的解釈」を聞きながら感じるのは、運の強さとはまず、「自分に振りかかるすべてを自分は運が強いと捉える」ことによってその人に身につくものではないかということです。
あらゆることは、どのようにも解釈できるものです。
その解釈の方向が肯定的か否定的かということで、まず、「運の強さ」が決まると言えるかもしれません。
実際のところ、松下さんの経験したことを、私が解釈したように否定的に考えることもできるし、松下さんのように肯定的に捉えることもできるのです。

(江口克彦:PHP 598 1998/3 28p)

**************************************************

この話を初めて読んだとき、とても腑に落ちるものがありましたね。
「運が強い」とか「ツイてる」というのは単なる言葉ではなくて、本当にそういうものを引き寄せるんだなあということを確信しましたね。

これを読んでから数年後なんですけど、ご存知の斎藤一人さんの講演を聴く機会がありましてね。
この方は中学しか出ていないそうなんですけど、自分でユニークな漢方薬の会社を興されて、6年か7年連続で日本一の納税額支払者、つまり、日本一のお金持ちとなっている方です。
斎藤さんが言っていることは極めて単純でして、とくに2つのポイントに重点を置いているんですね。

1つは「ツイてる、ツイてる」と言っていれば、必ずつくんですよ、ということ。
ただ、「ツイてない」と言っちゃうと、ツキを全部失ってしまうらしいですね。
要注意。
「運が悪い」とか「ツイてない」なんて言っちゃダメですね。

それからもう1つは、「ツイてる、ツイてる」と言っていれば確かにツイてはくるんですけど、どっちを選んだらいいのだろう?・・・という選択する機会が出てくる。
そうしたとき、どうしても板挟みというかジレンマに陥る状況が出てくるわけです。
そのときの判断基準として、どちらが正しいか、正しくないかということではなくて、「楽しいか楽しくないか」で判断する。
要するに、自分にとって楽しいほうだけを選んでいけば、長い目で見るとすべてうまくいくようなんです。
おもしろいですね。

■僕と部下の運

「ありがとう」「感謝します」に加えて「ツイてる」「運がいい」も僕は意識して繰り返し言うようになりましたね。
誰に対して言うのか?喜んで聞いてくれる自分に対してです。
そしたらね、すぐに言うクセがつきました。
クセがついたらこっちのものです。
ねっ!

ところで、僕は以前ある大手の化学会社に勤めていましてね。
その後、今の会社に声をかけてもらい転職したわけです。
給料はびっくりするほど増えました。
何もかも待遇がいいわけです。
妻なんか大喜びでしたね。
一番嬉しかったのは、好きなことをどんどんやってよいということです。
本当にいいの?と思いましたね。
もともと、僕の仕事というのは、いろいろな新しいモノを発明して、特許を取って、市場に出せる製品の形にまで開発していくという、いわば創造作業の繰り返しなのです。

まったく新しい研究開発をやろうと思うと、大きなお金が必要なんですね。
しかも億というお金が必要なときもあります。
会社はすぐに僕に2億円投資してくれて、その後10数億。
びっくりする額をいただけることになりました。
当時、僕は弱冠33歳。
転職したばかりの、どこのウマの骨か分からないそんな若僧に、会社はとんでもない大金をすぐに出してくれたんですね。
これだけでもスゴイことですよね。
あり得ない話です。
もう〜ツイてるっ!

このように3年ほど前、今の会社に入社しまして、研究部門の課長となりました。
大勢の部下がいましたが、その中に1人、気になる部下がいましてね。
名前をAさんとしましょうか。
僕より一回り年上の方で、係長さんです。
その方には部下はいません。
みんな、オジンだなんだと言ってね、
Aさんをバカにしていたんですよ。
臭いからあっちへ行けとかね。
すごく嫌われていました。
確かに何やってもうまくいかない人で、「うわあ〜、忘れた!」とか、何を尋ねても「知らない!」ばっかり。
何かとすぐに騒ぎ立てる人で、優柔不断で、あの人のやる仕事は絶対にうまくいかないと皆に思われていました。
Aさん自身も全然自分に自信がなくて、だんだん意固地になって。
だけど彼は、人間的にはとてもいい人でね。
僕は好きだったんですよ。
ただ、誰もAさんをフォローする人がいなくてね。
第一、僕も彼の仕事の内容がよく分からない。
そこで、僕の上司に、

「Aさんを僕のもとに置いてくれませんかね」

と言いましたら、

「いいのかい?彼は何かと扱いにくいよ」

と心配してくれましたが、

「いいですよ。僕にはそれほど苦になりません。彼の仕事、僕にどこまでフォローできるか分かりませんが、話し相手くらいにはなると思いますよ」

ということで彼が僕のもとに配属になったんですね。

ある日、Aさんに、ちょっとした質問と提案をしてみました。

「ねえ、Aさん、ご自分は運のよい人生を歩んできたと思います?」

「え?そ〜うですね。どう考えても運がいいなんて思えませんね」

「そうか。ひとつ、お願いがあるんだけどね」

「何でしょうか?」

「毎朝ロッカールームで会うでしょ。そのとき、ツイてる?って聞くから、ツイてますって応えてくれないかな。帰りも同じく」

「はあ?どうしてそんなこと言わなきゃいけないんですか?」

Aさんはそう言うものの、上司の課長のお願いだから「しょうがないな」という感じで、一応了解してくれました。

翌日の朝、

「Aさん、おはよう。どう、ツイてる?」

「え?あっ、はい、はい。ツイてますよ」

と、少しイヤイヤながらという状態でした。
夕方も声をかけるのですが、まあ、最初しばらくはこんな感じだったんですね。
でもね、毎日毎日やっていますとね、Aさんも慣れてきて、

「は〜い、ツイてますよ〜」

と楽しく言えるようになったんですね。
さらに、その理由を付け加えるのです。

「今朝、妻が作ってくれた朝ごはん、おいしかったな〜」

「今日、業者さん、頼みもしないのに、気の利いたものを持ってきてくれてね」

というような感じで、「ツイてる、ツイてる。どうしてかというと」と、ツイてたことの理由付けがだんだんできるようになってきました。

そうしたら、いろいろと彼の身の回りに起こる出来事がどんどん変わってきたのです。
彼が僕のもとに来たのは去年の4月なのですが、8月過ぎた頃、彼が開発担当していたものでびっくりするようなデータが出たのです。
さらに、10月を過ぎましたら、なんと、世界ナンバーワンの素晴らしいデータが出てしまった。
誰も到達したことのない品質のものができてしまったんです。

でも、社内の誰もが、「これ、たまたまだよなあ。再現性なんてないよ、絶対に」と言う始末。
ところが、去年の年末、何回テストをしても同じスゴイ結果が出た。
ということは本物なんですね。
そこで、これを大量生産するための投資をしよう。
もうちょっと深く研究を掘り下げるため、彼に部下を付けよう、となったわけです。
会社側もオーケーということになり、多額の投資を行うことが決定しました。

今年1月、製品ができ、彼には優秀な部下が2人も付きました。
その後のことは言うまでもなく、ますますうまくいきましてね。
大口のユーザーからは「評価したいからどんどん持ってきてくれ!」と言われ、海外に対しての輸出の検討も始まりました。
世界中に供給すればシェア100%です。
だって、他のメーカーはマネできませんからね。
スゴイですよ、本当に。
もちろん、特許は国内外に出願しています。
最初、社内の誰もが、

「どうせ、五日市がいろいろ彼に知恵を与えて、手取り足取り面倒を見てくれたからうまくいったんだろう」

と言っていたのですが、もちろん、僕は何もやっていませんよ。
すべて彼のアイデアと努力の賜物です。
僕が何かをしてあげたとしたら、「ツイてる?」って聞き続けたことくらいなもんです。

以前はね、Aさん、残業なんかほとんどやったことがなかったんです。
仕事終了のチャイムとともにすぐに家に帰っちゃうんですよ。
まったく仕事に対しての意欲がなかったですからね。
ところが、今は夜8時になっても、9時になっても帰らない。

「Aさん、家までの片道、けっこう時間がかかるでしょう?もう帰ったほうがいいと思うよ。明日の仕事に支障をきたすよ」

と言うと、

「もうちょっとやります。もう、楽しくってたまらないんです」

Aさん、土曜日も日曜日も会社に来たことなかったのに、喜んで来るようになりましたね。
僕は管理職ですから、土日でも出勤することがあるのですが、なんと彼には必ず会社で会うんですね。

「どうしたの、今日は休みじゃないの」

と言うと、

「次にどんなデータが出るのか、ワクワクして月曜日まで待っていられないんですよ。もう〜会社を休むということ自体がストレスになっちゃいます〜」

と、本当に仕事が楽しくってしょうがないようですね。

以前の彼は、いかに早く家に帰るか、そのことばかり考えていました。
会社にいたくなかったんです。
だけど、彼は自分の仕事に情熱を持つことができまして、いくつかの目に見えない壁を乗り越えることができたんでしょうね。
明らかに、1年前の彼とは全然違うことがお分かりになったと思います。
では、いったい、何が彼をここまで変えたのでしょうか?

もちろん、僕は彼に「ツイてる?」なんて、もう聞いていません。
彼は、いつ、どこでも、

「ツイてる、ツイてる、ツイてる、ツイてる・・・」

が口癖となりました。

も〜、うるさい!って言いたくなるくらい、自然と出てくるようです。

他人の例を出しましたけど、僕自身に関しては、あのおばあさんに会って以来、明らかにツキっ放しになりました。
そうした事例を挙げるときりがないのですが、ちょっと変わった例をお話ししますね。

僕がまだ幼い頃、父はいろいろな会社を経営していましたが、どれもこれもうまくいかず、みんなダメになってしまったんですね。
どんな仕事も失敗の連続でした。
だから、僕は小さい頃、

「オレは親父とは違うんだ。絶対社長になって、思いっきり金持ちになってやるぞ!」

と強く強〜く思い続けていました。
もちろん、今では価値観が大きく変わっていますので、そんなこと思っていませんが、その当時はそんな強い思いがありました。

おばあさんに出会った次の年でしょうか。
まだ学生でしたが、ある日、そんな昔の親父のことを思い出して、

「希望どおり社長になりました。感謝します」

なんて冗談で、ただし万感の思いで声にしてみたんです。
そのようなイメージをはっきりと思い浮かべながら。
そしたらね。
数日後、不思議なことが起こりました。

岐阜県にユニークな会社がありましてね。
その会社は社長を含め、確か20人くらいしかいません。
たったそれだけなのに、経常利益が20億円なんですね。
今はそんなに儲かっていませんが、当時、とんでもなく儲かっていまして、これは何かまずいことやっているんじゃないか?と思いたくなるくらいの利益の高い会社なんですね。
僕がどうしてその会社を知っているかというと、僕の友達がその会社の社長の秘書をやっているからです。
彼から突然電話がかかってきまして、

「おまえのことを社長に言ったらね、どうしてもおまえに会いたいって言うんだよ。今度ウチの会社に来てくれないか?」

というわけで、スーツでピシッときめて、行ったんですね。

その会社に着くと、玄関の奥に応接室がありまして、友人の彼が待っていました。
隣りには、スーツを着た中年の紳士がおり、もう1人、よれよれの服を着て腰に手ぬぐいをぶら下げたおっさんがいました。
そのおっさん、髪がボサボサで、長靴履いて泥まみれなんですね。
農作業から帰ってきたばっかりという感じでした。
スーツを着ていた男性に、

「社長、僕を呼んでくださってありがとうございます」

と言いましたら、隣りのおっさんが、

「社長はワシじゃ」

なんて言ったもんだから、慌てちゃってね。
スーツを着た紳士は、その日のお客さんだったようです。

ソファーに腰掛けると、その社長、いろんな話をしてくれましてね。
それが不思議な話というか、とんでもない話ばかりで圧倒されました。
例えば、受付嬢が僕にコーヒーを持ってきてテーブルの上に置くと、

「五日市さん、コップというのはね、何もこういう形をしていなくてもいいんだよ。例えば、こんなふうな・・・」

というような話をするわけです。

僕が皆さんと話しているとして、僕があることをしゃべると、皆さん、何か言ってきますよね。
それに対して僕がフムフムと思うわけです。
それは、僕の常識の範囲内のことを皆さんが言うからフムフムとなるわけです。
しかし、その社長の言うことは僕の常識を超えていまして、もう唖然、という感じですね。

「スプーンというのはね、何も砂糖をすくうためのものだけじゃないんだよ。こういうことができるし、こんな用途があるし、こんなところにも使えるんだよ・・・」

とにかくスゴイ発想の数々。

「社長、この会社、いったい何をやっているのですか?」

と尋ねると、社長はキラリと目を光らせてスーッと立ち上がって、

「ちょっとビルの中を案内しましょうか」

と言って、歩き出しました。

社長の後ろをついて行くと、『○○○研究室』と書いてある部屋の前まで来ました。

「五日市さん、ここは『○○○研究室』です。いいですか、ドアを開けますよ。よく見てくださいね!」

ドキドキしながら中を覗くと、その部屋には、何もないんですね。

「社長、何もないですね」

「そう、まだ何もないんだよ。これからいろんなものを入れるんだ」

そして隣りの部屋のドアには『×××実験室』と書いてあるんですが、ドアを開けて中を覗くとまた何もない。
社長は「これから機器類を入れる予定」とまた言うのです。
どこもそんな部屋ばかりでして、何もないのです。
何もないのに利益が20億?と不思議に思ってしまいます。

「2階に行きましょうか」

と言うもんですから、

「2階には何があるんですか?」

「何もないよ。今のところね」

「じゃ、行ってもしょうがないですね」

ということで、社長室のある最上階に行くことにしました。
エレベータを降りると、社長室がありました。
中には大きな机と椅子だけがポツンとあります。
社長は、そのイスを指差して、

「五日市さん、どうですか?」

「え?」

「どうですか?」

「いや、その、どうですかって、どういう意味ですか?」

「まぁ、・・・どうですか?」

要するに、その会社の社長にならないか、ということなんですね。
そんなこと言ったって、何やっている会社なのかさっぱり分からないのに、社長になるわけにはいかないですよね。

「社長、この会社、いったいどんなことをやっている会社なんですか?教えてください!」

とズバッと尋ねました。そしたら社長は、

「1階に戻りましょう」

と言って一緒に1階のソファーまで戻りました。

実はその会社というのは、奇抜な社長のアイデアで特許を取って、それで潤っている会社だったんですね。
特許で儲けるということは、内容的に本当に素晴らしい特許出願を行っていかなくてはならず、多くの発明例を伺いましたが、どれも素晴らしい発明ばかり。
しかも、すべて社長が考えたというから驚きです。
いったい頭の中はどうなっているんだろうと思いまして、

「社長、その発想って、どこから出てくるんですか?」

と尋ねましたら、

「これにはね、秘密があるんだよ」

と言ってニヤリと笑うんですね。

「教えてくださいよ」

と言いましたら、

「知りたいかね、フフフ。それはね、断食だよ」

と言うのです。

断食。
つまり、一定期間、まったく食べずに水だけで暮らすわけですね。
その社長は、10〜20日間の断食を定期的に奈良の断食道場で行うそうです。
そうすると、その間にいろんな発想が出てくるらしいのですね。
ある人は、2週間くらい何も食べないと、精神的に研ぎ澄まされてくるために、植物が呼吸するのが分かるそうです。
本当ですかね?

とにかく、きちんとプログラムされた断食を行うことで自分の体を飢餓状態に追い込み、その人が本来持っている潜在能力を高めることができるのだそうです。
これまで世界で活躍した優れた発明家、超能力者、宗教家、思想家と呼ばれる人たちのほとんどが、断食をしていたことはよく知られています。

僕も、ぜひ挑戦してみようと奈良の断食道場へ行って数日間断食を行いましたが、ただ腹が減っただけでしたね。
それだけでした。
素質がないのでしょうね。

ちなみに社長には娘さんがいて、婿に来ないかということでしたが、それはお断りしました。
どうやら僕にその会社に来てもらって、いろんな実験機器を選定して購入し、研究室や実験室を充実させてほしい。
またそれら使用上の指導も社員にしてほしい、と願っていたようです。
ついでに娘さんも。
特許を出願するためのデータ取りを自社の評価設備でできるだけ行いたいと考えていたんでしょうね。

その話のついでに言うと、実は1か月くらい前に、ある有名なヘッドハントの会社から電話がかかってきまして、

「社長として来てくれませんか?」

とびっくりするようなことを言われました。
ヨーロッパにある多国籍企業でして、世界中の国々に支社を持ち、関連会社を含めると10万人以上の会社だそうです。
提示された年収は数億円。
すごいですね。

「どうして僕に声がかかるんですか?」

「それはですね、・・・という理由でして」

「だって、僕はまだ若いんですよ」

「若い人を探しているんですよ。日本人で英語もできて、・・・の実績のある方をね。それらの条件を満たす人物ということで、五日市さん、あなたが適任と判断されました。どうかよい返事を期待しています。決してご不満な条件ではないはずです」

大変名誉な話ですよね。
さて、皆さんが僕なら、どうします?
快く応じたほうが「楽しい」でしょうか?
それとも、断ったほうが「楽しい」でしょうか?
今、僕が勤める会社から大きな信頼を受け、10数億という大金をいただいて事業を立ち上げている真っ只中に、お金や地位のことだけを考えて他の会社に行くわけにはいきません。
現時点では、「ヘッドハントに応じる=心地よくない(楽しくない)」と判断しました。
よって、何のためらいもなく、この話をお断りしました。

だけどスゴイ話ですよね。
こんなちっぽけな僕にね。
世の中には、僕より頭がよくて、英語ができて、社会性のある人なんてごまんといるのに。
僕の家柄なんか全然よくないし、資産なんてな〜んにもない。
たいした人脈もコネも、ないないない。
そんな僕に、どうしてそんなビッグな話が来るのかなぁ?

小さい頃、「社長になりたい」「お金持ちになりたい」という強い意識が、長い年月を経て現実化されようとしたのでしょうか?
もしそうだとしたら、そのきっかけは何だと思いますか?

それは恐らく、「ツイてる」とか「感謝します」「ありがとう」という魔法の言葉によって引き起こされたのかもしれませんね。
どちらかを選択する上で判断に困ったら「楽しいほうを選ぶ」。

今の僕は、社長職よりも、すべての情熱を注いでいる現在の仕事の継続のほうが楽しいと判断しました。
常に楽しいと思われるほうを選んでいく、それだけです。

■おわりに

今日の話を通して、皆さんに言葉のエネルギーの凄さというものを少しでも分かってもらえたらいいなと思いました。
家庭教師でみた女の子は10代で人生の方向を大きく変えることができました。
でも、人間、40歳を過ぎたら、そう簡単に自分を変えることなんかできない、とおっしゃる方がいますが、本当にそうでしょうか?

だって、Aさんを見てください。
たった1年で、あんなに大きく自分の意識をプラスに変えることができたんです。
それはどうしてでしょうか?
簡単です。
自分の人生は「運がよい」とした上で、ステキな言葉を選んで言い続けたからです。

プラスの言葉は魔法となってステキな出来事を体験させてくれます。
ステキな出来事に「感謝」。
そして、素晴らしい運命に「感謝」しましょう。

もし、最愛の人を亡くしたら「ありがとう」。
交通事故に遭っても「ありがとう」です。
これで、すべてオーケーです。
何も心配することはありません。
まだ起こってもいない未来に対して「不安」がったり「心配」したりするのはもうやめましょうね。

現在地 ホーム>「ツキを呼ぶ魔法の言葉」(五日市 剛)